2023年5月6日土曜日

日本は太平洋戦争で東南アジアを救った?インドネシアの歴史教科書に載る「ロームシャ」の話



日本は太平洋戦争で東南アジアを救った?インドネシアの歴史教科書に載る「ロームシャ」の話


2020/08/05 東南アジアで日本が太平洋戦争でしたことについては興味があり、いくつかのページをブックマークしていました。少しずつ読んでいこうと思います。まず、最初は「ロームシャ」という言葉の説明から。日本では戦後あまり知られていなかった言葉で、現在でもそうであろうと思います。
 『外交史料館報』第 27 号(2013 年 12月)の 『講演会 アジア太平洋戦争と東南アジア』(後藤乾一)によると、ロームシャというのはインドネシアの歴史教科書ではキーワードとして教えられた言葉で、日本語の労務者が由来。しかし、防衛研究所のインドネシアにおける日本軍政の功罪 (13/19 芳賀美智雄 2007年3月)などによると、日本語の「労務者」と異なり単なる労働ではなく強制的に重労働をさせられた者を指すそうです。
 日本は隠蔽をはかったのか、The Labour Recruitment of Local Inhabitants as Rōmusha in Japanese-Occupied South East Asia(※1)によると、関連文書が組織的に破棄された他、利用不能となっているものも多く、全容を正確に把握するのは難しいようです。ただ、それ以外の部分からでもある程度わかります。


日本の仕事がブラックすぎるとバレて労働者が来なくなって強制徴用に…


 例えば、インドネシアの歴史教科書における「ロームシャ」について (東南アジア研究 佐藤 正)では、インドネシアで徴用されたロームシャは400万人以上にのぼると見積もられています。
 代表的なのは、タイ・ビルマ間における泰緬鉄道(たいめんてつどう)建設。インドネシアを中心に合計20万人以上のロームシャと連合国軍の戦争捕虜約6万人が動員され、そのうち約1万5000人が虐待などにより、死亡しているといいます。( 戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争(7)アジアは一つだったのか? 帝国崩壊 死者は2000万人を超えた - 毎日新聞、他を含めてロームシャ - Wikipediaより) 
 先の※1によると、初期には自発的な賃金労働者を募集していたものの、応募して労働に従事した者らが帰国してあまりにもブラックすぎる実態を他の住民に広めたため、募集が難航するようになって、強制的な徴用という方法を編み出したみたいです。 


日本側も多数の死者を認める泰緬鉄道虐待事件、実は犠牲者数はもっと多い?


2020/08/08 上記であった泰緬鉄道(たいめんてつどう)建設捕虜虐待事件ですが、死者の数は1万5000人では済まなったかもしれません。東京裁判ハンドブック(1989)によると、動員数は、アジア人労働者が約20万人 - 30万人、連合軍の捕虜約6万2千人 - 6万5千人。そのうち、約1万6千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡しています。
 ただし、この死者はおよそ6万人動員された 連合軍の捕虜のみ。アジア人労働者の死者数が一切入っていないのです。連合軍の捕虜だけ死んでアジア人労働者の死者がゼロというのは考えられないでしょう。前述の通り、募集しても人が来ないほどの労働環境の悪さであり、アジア人労働者にはホワイトだったということはありません。単にデータがないのだと思われます。
 これが不思議だったのですが、東京裁判ハンドブックによると、戦犯裁判は、飽くまで連合軍の俘虜の虐待・虐待致死についての裁判のみ。アジア人労働者の虐待に対する裁判は、被害者国含めてどこの国によっても行われていないとのこと。このせいで、実態が不明のままになっている感じでした。仮に同じ割合で虐待死しているとすれば、アジア人労働者の死亡者数は、5万から8万人程度となりそうです。
 なお、東京裁判は一方的なもの!といった反論が予想されますが、意外なことに犠牲者数などについては、日本側の主張とそれほど大きな差はなかったそうです。つまり、多くの人が亡くなっていたことは事実なんでしょうね。
俘虜の総数や死亡者数の事実関係については、日本側が使用総数を5万人、死亡者数を10,672人と申告し、英軍側は米国俘虜の証言として英・米・蘭の俘虜総数6万4千人、1944年10月までの死者は1万7千人であり、本裁判の対象外となっているマレー俘虜収容所の指揮下にあったF隊とH隊の俘虜総数9,950人、死亡者数3,938人を除くと俘虜総数は約5万4千人、1944年10月までの死亡者数は約13,400人であるとしており、両者の主張に大きな差はなかった>
 東京裁判自体は私も問題を感じる部分がありますが、右派と問題を感じる部分は異なるでしょう。 泰緬鉄道の裁判で日本側は、大本営の決定・計画であったこと、準備不足や医薬品や食糧の不足があっただけで故意に差別したわけではないといったもので、これは理解できます。また、「下級者に重く、司令官に軽い」処分になっており、これが英国本国でも問題視されたというのもわかります。(以上、東京裁判ハンドブック、Wikipediaより)
 ただし、ここから日本は問題なしという結論には到底なり得ません。飽くまで「下級者に重く、司令官に軽い」の逆で上部に問題があった、特に、計画を立てた大本営に責任があるだろうという話。日本が悪いのは間違いありません。これは、現在の企業などの組織の問題でも似たところがあり、本来は上部、特に経営者の問題なのに、直属の上司や部下の問題にされることがあるのは気になります。


村民の6割以上を殺害したビルマ(ミャンマー)のカラゴン村事件


2020/08/09 次は、現在のミャンマーであるビルマのカラゴン村で、1945年7月7日から8日にかけて起きたカラゴン事件についての話です。
 1945年7月、日本軍のビルマ憲兵隊モールメン分隊の憲兵4名が、モールメンの東北約50キロメートルにあるカラゴン村付近に英印軍の空挺部隊が降下したという情報を受けて、カラゴン村を調査。英印軍は村民たちの支援を受けていることが判明しました。陸敵部隊の殲滅の命令を受けたものの、敵はすでに移動済み。その後、カラゴン村の掃討命令に変わります。
 林博史『BC級戦犯裁判』など(Wikipediaより)によると、1945年7月7日夕方、第3大隊と憲兵隊は、カラゴン村に到着すると、村人を集め、男性をモスクに、女性と子供を附属の集会所に閉じ込めて取調べを行い、その間に村民を虐待しました。殴打したり、家屋から吊るすなどして拷問しながら尋問したとされています。その中で何人かの村民がゲリラに協力していることを自白しました。
 ただ、虐待や殺害は何人かでは全然済んでいません。生き残った村長の証言によると、戦後殺害された村民の人数を確認したところ、男性174人、女性195(または196)人、子供266(または267)人の計637人。900人から1千人程度の人口だったため、6割以上が殺害されたことになります。尋問は行ったものの、容疑者を絞ることもなく、女性や子供も含めて殺害。特に子供を殺す正当性は、狂信的な擁護者でも思いつかないものと思われます。
  なお、これで終わりですらなく、一旦を村を離れた後、同月11日に再び村に戻ってきて家屋に放火し、約10人の女性を連れ去っていました。

女性や子供の大量殺害、日本軍の弁護側も認めていた 若い女性は慰安婦目的で拉致か?

  裁判において、弁護側は、大量の村民の殺害の事実については争っていません。つまり、女性や子供を含めて殺したことは認めているようです。
 その上で、日本軍の行為が敵対行為に対する合法的な報復であり、軍事的に必要な行為であったと主張したとのこと。前述の通り、子供を殺した正当性はないと思いますけどね。
 また、弁護側は仮に戦争犯罪であったとしても、被告人は上官の命令を遂行しただけで責任はないと主張して無罪を申し立てたとのこと。これは泰緬鉄道の件と同じで、上部に責任があるという路線ですね。こちらの方がまだ理解できます。
 本人尋問で、第3大隊の市川大隊長は、やはり上官の命令を遂行したと主張。ただ、女性・子供の村民を殺害したことについて、本当に女性・子供が敵対行為をすると考えたのかと突っ込まれています。大隊長は、「する可能性」があり、女性・子供も含めて殺害するよう命令を受けていたので自分はそれに従った、と回答。また同部隊の幹部として行動した大尉は、上官からの命令が不法と考えたとき、上官に意見具申する義務があると思わないか問われて、自分は不法とは思わなかったと回答しています。
 当然、弁護側の「合法的な報復」という主張は荒唐無稽で、退けられました。イギリス軍に協力した村民は数十人で、女性・子供を含めて600人以上を殺害することは合法的な報復の範囲をはるかに超えています。そもそも武器提供の証拠すら見つかっていなかったそうです。
 なお、女性の誘拐(正確に言うと拉致?)に関して、公判の中で検察側は、誘拐されたのが若い女性ばかりで、被告の「スパイとして使おうとした」との主張が不自然であることから、「慰安婦」とする目的だったのではないかと追及しました。それ以外に考えられないだろうという話なのですが、確証が得られず「誘拐」について有罪を主張するに止まったとのこと。よく不当な裁判と言われますが、むしろ正確であろうとしていることがわかる部分です。
 ただし、例によって、上司の責任が問われていないのは問題。東京裁判は皇族の罪を問わないなど、ここらへんがおかしいですね。カラゴン村事件の場合、歩兵第215連隊の戦記では、陸軍第33師団の田中信男師団長がカラゴン村の掃討命令を下したと指摘。裁判によれば、戦犯容疑で召還された部下たちに対して「お前らのやったことは、一切お前らで責任を取れ。上の者には絶対迷惑を掛けてはならんぞ」とすごい権幕で脅したとのこと。結局、起訴されることはなく、自ら責任を認めることもありませんでした。(前述のWikipediaと田中信男 (陸軍軍人) - Wikipediaより)